自粛というくだらない文化
九州地方では宿泊施設52万件キャンセル。
影響の少なかった県でもキャンセルが多くでているとか。
震災の影響がもろに出てしまっているみたいですね。
いろいろな理由はあるでしょう。
・宿泊施設が不安
・また地震がありそう、余震が怖い
・交通整備が整ってなさそう
・観光地が封鎖されてそう
だとかなんとか、理由はさまざまですよね。
問題は、今回は被災した人たちがいる中で観光にいくのはなんだか悪い
という気持ちでキャンセルする人たちなんですよね。
日本人の自粛文化
日本人は元来空気を読む民族ですから、その場の雰囲気を読むトレーニングを幼少期から鍛えられます。空気を読めないと淘汰されます。
連帯感が培われるのかどうなのかよくわからないこの能力の是非は別として、
なんだかよくないことが起きるとみんな、しん、としてしまいます。
なんだかみんな黙ってるからおれも黙らないとなと。
波及効果でみんなにそのだんまりが連鎖していきます。
よくないことが起きている。当時者のことをお前もしっかり考えろよ、とみんながみんなに押し付けようとします。空気で。
そう、自粛していることが善だと。
なぜか必要のない人まで使命感に囚われる
周りにもいたのですが、震災が起きると九州であったイベントをキャンセルしました、と報告する人たち。
被災した人たちがいる中で、自分だけ楽しむことなんてできない。
と思う気持ちはわかりますが、別にあなたでなくて良いのではないのですか。
といつも思ってしまいます。
そもそも自粛すべき人なんて1人もいないとは思います。気持ちは必要かもしれませんが、行動は必要がないのだと思います。
被災地の関係者や、広くとって九州地方の人は許容範囲ですが、それ以外の人たち、遠く離れた県の人たちはどうなのでしょうか。
関係もないのに空気を読んだ使命感を持ち、それを周りに波及される行為はすべきではありません。
あなたがする必要はないのです。
できないなら何もしなくていい空気を作る
被災地の人々は多分自粛なんてものは求めてないでしょう。テレビ番組だってどんな内容だろうが変える必要なんてないでしょう。被災地の人たちはじっくり見ている余裕なんてありませんから。むしろ、いつもの番組をいつものように見られたらそれは小さな幸せになったりするように思います。
実家の県が被災して、観光客が減ってしまったら、それは二重苦三重苦です。むしろ、いつも通り楽しんで観光してくれたら嬉しく思います。それでも来てくれると。ピンポイントの被災地は難しいにしても、他の観光地ならば。
被災者は別にあなたに何かしてほしいとは思っていません。日本人ならきっとボランティアが集まることがわかっているでしょうし。
自粛して経済が滞ったらそれこそ税収も減るわけですから。
できないならできないで別に良いじゃないですか。
やりたいから自分はやっているだけだ、他人に押し付けない空気を作れないのは問題です。
そういうことは芸能人に任せましょう。
自粛という支援はありません。
震災から学ぶべきこと
心のどこかでは被災した人たちに何か助けができたらいいが、
ボランティアいく時間や行動力がなく、募金ができる余裕もないだとか、
連日熊本の状況を見ていれば誰でも何かできないかと思っていることでしょう。
いわゆる支援者狩りをしている人の心境はこんな感じでしょう。
大きな支援ができる人がいる中で、自分には何もできないと、
でもなんだか世の中はしなくちゃいけない空気があると、
本来、支援とはできる人がやればいいのです。
できない人はそれでいいのです。
指先一本でも支援は支援です。
災害に遭う可能性は皆平等
地震が起きた後に決まって言われるのは、予測できなかったのか、です。
自然の力に対して、科学は無力です。すべてが予測できるわけはありません。しかし、わかった上でも論じたいことでしょうね。
東北にしても、今回の熊本にしても、起こる前から危機感を持って報道されたりしていたかというと全くだと思います。え、東北で?熊本で?という感じであったはずです。今懸念されているとしたら、首都直下型地震や南海トラフ地震。これが起きてしまえば、予想していたのに、とある程度言えるかもしれませんが、前回と今回は想定外だったはずです。
自然災害とは常にこうです。どこでいつ起こるかなんて予測なんてできません。日本全国を災害の起こる可能性危険度みたいなものを出して、順位を出したとします。その上位にくる市町村から順に災害が起こるかといえばそんなわけはありません。いきなり下位の市町村に起こる可能性だってあるんです。
ここらへんは大丈夫だよ、と言っている人でも明日何が起こるかなんてわかりません。
地形的に起こりそうだとか起こりそうじゃないとかは関係ありません。予想もしていなかったことが起きたのが、東北であり、熊本です。だから、日本のどこにいても災害に遭う可能性はみな平等なのです。
将来の自分は自分で守る
東北では津波による被害で多くの会社が被災しました。職を失った人もたくさんいたでしょう。ある番組で、津波により会社がなくなり仕事を失った人のインタビューがありました。その人は40代後半で地元の安定企業の管理職として働いていました。こんなことが起こり、仕事を失うなんてことは夢にも思っていなかったそうです。
震災から1年が経ち、職を失った人の中で再就職できた人は3割にも満たない状況。そのうち、資格やなんらかの技能があった人の就職率は8割だったそうです。資格があれば就職できるという話ではありません。管理職を務めていた方は将来がこのような形になるとは思いもせず、この仕事以外で何か特殊なことができるわけではなかったようです。
ある一つの組織に所属して、一生安泰なんてことはもう崩壊しました。そこを頼って生きていた時、いざそれがなくなってしまえば、家族を守ることもできません。
人それぞれやり方は違えど、将来のリスクに備えた行動は常に念頭において行動をしていなれけばなりません。何かが起き、会社がなくなれど、生きていける方法を模索する時代だと思います。
明日全てがなくなる可能性だってある。それは注目もされていない自分の住んでいるところかもしれない。それをいやというほど教えてくれたのが、東北の震災であり、今回の熊本です。
不老不死の国へ
以前、ど田舎の実家に帰省しておりましたところ、
地方紙に県の予算についての記事が載っておりました。
詳しくまでは覚えていないのですが、
二つの分野においての予算案に関して衝撃を受けました。
・長寿で健康な体作り推進?的な費用 400億円⇨440億円
・教育に関する費用(タイトルは全く覚えてない) 200億円⇨240億円
まぁ大体40億円ずつくらい増加してるんだなぁとか、医療関連費用て結構かかってるんだよなぁとか、みれば誰でも感じることだと思うのですが、個人的に疑問に感じたのは「長寿」という言葉がタイトルに入ってることです。
え、この県はまだ「長寿」なんてものを推進してる?と驚きました。
小学生の頃、地域のお年寄りに対して手紙というかハガキというか、そういう感じのものを書かされ、送っていました。そこでの定番フレーズは「長生きしてください」というものでした。その時は今のような超高齢社会ではありませんでしたから仕方ないかもしれませんが、高齢化社会でしたからね。て、今も小学生たちは「長生きしてください」の定番フレーズは無意識に書かされていますよね。当然か。
「長生きをすること」ていうのは必ずしも良いことですか?
人類にとって不老不死というのは永遠のテーマみたいなものなのかな。
漫画等ではよくみかける気がします、決まって悪役が。
日本の平均寿命は世界1位です。アフリカ等の国々に比べるとダントツの高さです。少なからず日本国民にはこれが良いこと?自慢?に思ってる人がいると思いますが、本当にそうですかね。
高齢社会の問題点はいちいち書きませんが、自分が言いたいのはそこではなく、
人間はそこまで長生きして何が良いのか、ということです。
70、80歳にもなればもう体はそう思うようには動かなくなります。あちこち痛いところが出てきて、様々な病気にかかり、頻繁に病院に通わなくてはならなくなります。病院に行くことが日課?になります。それを若者の体のようにするような医学は今現在存在しません。
体がもう動かなくなり、誰かの介護が常に必要で、家族が誰なのかもうわからなくなり、自分が生きているのかどうかももうわからなくなっている、そんなレベルの人ってかなり多いように思います。
健康であることはよいことだと思うのです。健康的で元気で生活の多くのことは自分でこなせ、自立している。このレベルならば誰の手も煩わせません。
しかし、前述もしましたが問題なのはもう生活のほとんどが誰かの手によってしか成り立たなくなってしまった人です。
このような人のために身内だからといって、今は若者ですら自分の人生を棒に振っても介護をしなければならない人がいます。これは社会にとっても大きな損失です。
自分はそれなりの歳になって、誰かの手を煩わせるようになったらさっさと死にたいと思ってしまいます。まして、自分の子供なんかに介護をさせ、やりたいこともできないようにさせてしまったなら、親としての恥だと思ってしまいます。やはり、身内だからという義務に生きるのではなく、自分の人生を自由に生きて欲しい。
だから、日本は安楽死を個人の選択に委ねられるべきなんですね。
まぁそうすると、自殺願望がある人がどんどん死んでしまうなんていう人もいます。その場合は条件を設ければ良いのだと思います。重度の病気だとか、介護レベル、また年齢。家族の同意が必ずしも必要というのは疑問ですが。
そして、安楽死を専門にする機関を作り、一切の権限を委ね、高額な報酬を与えておけば良いのだと思います。
長生きをすれば良い、という社会は終わったと思うのです。
どんな理由があろうとも生きなければならない、ということが当たり前の世の中でそれは本当に正しいのか。
自分はもうだめだ、楽にしてくれ、といっても死なせてくれない国。寿命を全うすべきだ、という考え方には賛同しかねます。
しかし、安楽死に拒否感しかない日本で法整備が進むことはないとは思います。
今後どんどん死にたくても死ねない国へと進化を遂げいていきます。
不老不死の国へ。日本は世界で最もそのその方向に向かっていきたい国なのでしょうね。
それでも経済大国の日本がオリンピックでケチるということ
海外で働くということは何かとバタバタしてしまうものですね。
ようやく考えたことを書く時間ができました。
自分の薄い考えをアウトプットする時間が。
2020年に東京でオリンピックがありますね。
当初、予定していた新国立競技場を見た時、近未来的で斬新でかなり驚いたものです。これが現実になればさすが日本という感じでしたね。ザ・日本という感じはないものの、ちっさい島国なのにさすが経済大国日本だわ、と世界は驚いたことでしょうね。
しかし、予算的に無理だということで、もめにもめて結果、和を感じる?作りにはなったものの、経済大国の日本というより、なんだか慎ましい謙虚な日本的な、控えめの日本という感じの競技場になってしまいましたね。
最初の案は、誰が見てもすごい、というのは感じられました。先にそんなデザインを見せられた後に、予算をある程度抑えた範囲での現行の案は、なんだか落胆してしまった感があります。
確かに、何千億円もかかる、というか兆もいってしまいそうだったのかな、だからそれはいくら何でも予算をかけ過ぎだという意見が圧倒的だったのでしょう。
そんなにオリンピックにお金かける余裕があるなら、もっとお金をかける必要があるところが山ほどあるだろう、というのが国民の意見だったわけですね。日本国民がみんなオリンピックに興味があるわけではないですし。多くの人はテレビ越しに観戦するといったものです。
外国人が多く日本に来てくれるし、雇用も生まれるしで、経済効果は大きいですが、何もそこまでして他国に対し見栄を張らなくとも良いだろうと、コンパクトにまとめて既存のものをうまく利用し、あまり予算をかけないで行う方法で成功させるのも日本のやり方だというのが今回のテーマだったりもします。
でも、本当にそれで良いの?て思っちゃいます。
日本はたくさん国内に問題を抱えてるから、そのためにお金使いましょう、日本国民に使うお金優先しましょう、だからオリンピックは節約しましょう、て考えは、うーむ、と疑問に思ってしまいます。
オリンピックて日本人だけのものですか。いやいや、世界で最も有名なスポーツの大会なわけです。世界のたくさんの国々の人々が、自分のスポーツ人生の全てをかけて臨む大会です。しかも毎年あるわけでもなく、4年に一度。自国がオリンピック会場に選ばれたいと望んでる国はたっくさんあるわけです。日本は以前に会場となってはいますが、まだ一度も開催国となってない国はたくさんあるんです。
その中で選ばれたのが日本です。日本国民だけが参加するものではなく、日本国民のためだけのもの全くありません。
それに、日本は経済が低迷していて、オリンピックが開催されるというのは本当にありがたいことなのです。多くの外国人が訪れ、その時日本に持つ印象が今後の訪日外国人の数にも影響を与えます。
やっぱり日本はまだまだ経済大国だ。3位になっても、世界で3位だと。この小さな島国が。
それを誇示できるのが、オリンピックの象徴とも言える競技場です。そこにその国の威信だとか、経済力だとかが詰まってると思うのです。そして、そこで人生をかけた大勝負をする全世界の選手たちを迎えるのです。
当初の予算から大分節約できても、それが他の事業に使われるわけではないのですよ。税金が多く使われるわけですが、その分今後の経済効果や外資獲得に繋がるのです。
金を使い過ぎても、ケチってもウダウダ言われるなら、
私個人としては、やっぱりまだまだ日本は経済大国だと世界に知らしめたいという気持ちがありますね。
絶対原則としての「世の中そんなに甘くない」
グラビアアイドルになれると思ったらAVに出演させられた。
という悪質なAV会社の実態が明らかになったニュースを目にしました。
こういう会社を取り締まったところでまずこういう会社はなくなりません。あの手この手でうまくやっていこうとするんですから。いたちごっこです。
だから、個人の危機管理能力にある程度は委ねられるしかないんですよね。
「世の中そんなに甘くない」の原則に則って行動すべきだと思うのです。
今のAV業界の女優さんは顔もスタイルもかなりレベルが高いです。芸能人やグラビアアイドルよりも美貌のある女優さんは多いです。AVなんてやらなくていいんじゃない、と思える人、むしろ、芸能人やグラビアアイドルでAVにした方がいいんじゃない、と思う人はいます。
芸能界にしても、グラビア界にしても、AV界にしても、見る側を惹きつけるような魅力を持ったかなり高いレベルの人でないと売れないのです。多少例外もあるでしょうが、高いレベルの容姿が求められるのは当然の仕事というのは言うまでもないのです。
女性なら一度は、一見華やかな芸能界やモデルを夢見るものかと思います。なれるものならなってみたいと。
中学時代の同級生におりました、女子アナになりたいと豪語するこが。
「え、君が?」とツッコミを入れそうになりましたが、その子はクラスでもトップに近い成績でしたし、とても気が強かったのでみんな言えませんでした。
じゃあ容姿の方はというと、うーむ、全くという感じです。ブサイクというほどではないにしろ、その子をかわいいという人は聞いたことがありませんでした。自分でもさすがに一瞬にして「女子アナ」は無理だろ、と思ってしまいました。
ですが、その子はなれる可能性はあるんだと思っているんです。鏡見たことあるのかな、と思ってしまいますが、そういう子は自分の顔が女子アナに足る容姿であるように見えているのです。
そういう人は実際に多いです。自分からすれば、自分の容姿を売るような職に就いて、食っていけるかどうかなんて鏡を見てしまえば一瞬にして分かってしまいます。
あれだけテレビで厳しい業界だと言っているグラビアアイドルを見たことがあるのに、私にもできるという自信が少なからずあるというのはある意味才能です。
スカウトする方も話術が巧妙ですから、女性を落とす殺し文句がいくらでもあるんですよ。そこにそういう華やかな業界にちょっとでも興味があって、それに足る容姿であると思ってる節のある人は簡単に落ちてしまいます。
でも、残念なことにそんなに世の中甘くないんですよ。あなたレベルの人なんて星の数ほどいるんです。特に中途半端に可愛い子はいくらでも。その中で私は頭一つ分出ているんだ、という人を守ることは難しいんです。
スカウトに「かわいいよ、君ならできるよ」と言われてもその瞬間に「いや、私の容姿じゃ無理」と考えられない限りは救えないのです。
同じような服装で、同じような髪型で、同じようなメイクをすれば案外「可愛い」程度の人はたくさんいます。でも、それらを取っ払った時に「芸能界的、モデル界的に可愛い」という人は一握りです。
読者モデルていうのもあって、そういうモデルの範囲もだいぶ広範的に広がってますから、「私でもできちゃうかも」と思ってしまう可能性は高いのが現状ですね。
だから、如何に「世の中そんなに甘くない」の原則に則り、如何に適正な「私の容姿でならどこまでの仕事ができるのか」を考え、そういう仕事を目指すべきでしょう。
見えているのはその業界のほんの一部の華やかな部分だけ。
取り返しのつかないことになる前に、今一度自分の容姿を見直し、客観的に判断する力を身につけましょう。
殺人ゲームの子供への影響について
今のゲームはとにかくリアルですね。
PS4の画質は半端ないですね。もう何年もゲームはやっておりませんが、実況を見ているとやりたくなってしまいました。
Rainbow Six Siege というゲームはかなりやってみたいと思いました。しかしリアル過ぎる。私はスーファミから始め、PS2で止まっております。プレイヤーの選択によって物語が変わっていったり、ステージは広大はオープンワールドであったり、知らない人たちとマルチプレイができたりと、すんごい技術の進歩だと感じてしまいました。遅れてますね。
ニュースを見ていると、殺人犯が「ゲームをしていて殺人を思いついた」とかゲームがきっかけで犯罪に手を染めてしまったという報道を聞くことがあります。
親は基本的に子供がゲームをするのを嫌いますね。まぁゲームなんてなかった時代の人たちですから、ゲームなんてしていないで外で遊びなさいとか、ゲームばかりしていたら視力が下がるだとか、そして極めつけは暴力的な子供に育つだとか言われます。ゲームをしていたことがある人はそうやって親から何かしらの小言を言われたことがあるでしょう。
テレビの報道というのは、この殺人事件はゲームが原因で発生したのだと言わんばかりです。そうすると親や祖父母たちは、ゲームは子供にやらせるもんじゃない!という考えしか持たなくなります。
こうやって全く子供のやってることに興味を示してくれないと、子供は反発するようになるのですよね〜
とまぁ、ゲームは子供に対して悪影響を与えると思い込んでいる人が多いのは事実ですね。
しかし、実際にゲームをプレイしていた子供、特に人をリアルに近い感じで倒すゲームをプレイしていた子供は将来犯罪を犯す可能性は高いのでしょうか。
本当のところ、相関関係はないように思います。
現に、影響を受けている人がいるじゃないか、といってくる人がいるとは思います。そりゃ極々少数はいるでしょう。
というのも、そもそも殺人を犯すような人というのは、もともとそういう癖がある人です。これは先天的なものだと思います。育った環境が悪く、後天的に殺人を犯す人もいるとは思いますが、生まれた時から備わっていた部分が大きいでしょう。
ゲームはそれなりにやっていました、もちろん殺人ゲームも。しかし、現実世界で殺人をしてみたいとか考えたことはまずありません。テロをするような人は懲らしめたいとは思ったりしますが(笑)
なので、殺人ゲームを好んでしていようがいまいが、殺人をしてしまう人はいずれしてしまうのです。これは現実でしてはダメだ、という理性がないのです。ここまででやめておこうと自分にストップをかけられない。
ゲームから影響を受けるというより、もともと潜在的な殺人癖のある人がたまたまゲームがトリガーとなっただけだと思うのです。それはゲームじゃなくても、小説だとか漫画や映画でもその可能性は同じでしょう。
ゲームの技術が向上して、それがさらに現実に近くなれば、それをプレイする子供たちに良い影響を与えることだってあるのです。ゲームの仕組みを学びたいとか、こんなゲームを作ってみたいとか、プレイ側で人に楽しさを発信しただとか、良い影響だってたくさんあるわけです。
子供と一緒にゲームしてあげましょう。
間違ってもゲーム機バキバキにしてはいけません。逆にその行為が子供に悪影響ですよ。
薬物依存症を自己責任論で片付けるのは酷なのか
最近、有名野球選手が薬物使用で逮捕され、ある議論が一部で巻き起こっているようですね。
薬物使用をしてしまったんだから、どんなに厳しく法的にも社会的にも罰せられて当たり前で、自業自得なんだ、そこに救済の余地はない、という自己責任論がその薬物使用者にとってはあまりにも酷だという、反自己責任論を唱えている人がいるようです。
日本の場合、自分で選択したことにより招いたことは社会が助けてやるのはおかしい、という風潮は確かにありますね。例えば、妊婦や小さな子でものいる親に対してです。日本はこどもを社会が育てるのではなく、個人が育てるものだというものがありますね。いい歳になれば結婚するのが当たり前で、それが勝ち組とされるため、妊婦等はいわば勝ち組です。そういう特権階級には非常に妬みを持つ国民性です。自分たちが欲しくてつくっておいて、なんで私たちが助けてあげなくちゃいけないのと。
まぁ非常に子育てはしづらい国ですので、今後も出生率が上がるということはないでしょう。
他には、生活保護を受給している人へのバッシングであったり、まともな職に就けなく奨学金が払えなくなった人に対してだったりと。あの時頑張らなかったあなたが悪いんでしょう、という風潮はいたるところにありますね。
こういう点において、日本が他国よりも厳しいかどうかは定かではありません。国民性の違いでもありますし、文化も違いますから一概に他国と比べて日本は厳しすぎるのだということはできないように思います。
話を戻して、薬物依存症の人に対して、反自己責任論を適用するのはどうなのか。このことに関しては、自己責任論を適用せざるを得ないのでは?と思ってしまいます。やっぱりあんたも日本人じゃねーかって?
ある国では薬物使用が社会問題化しており、薬物依存症は「病気」と捉え、社会が救済しよう、という考えを持っているようです。まぁ批判もあるでしょうが
ですが、薬物依存症を病気と捉えて救済しようというのは難しい面があるように思います。
薬物を使用すればどうなるか、ということを知らない人はまずいません。手軽に手に入るものではありません。その筋の人とつながる必要がありますしね。それに、少量で高額になります。ドラッグストアに行って簡単買えるわけないのですから、薬物の危険性なんてのは誰もが周知のことです。
それを知っていて購入していますよね。薬物にはまる人は確かに軽く考えて使用はしているでしょうが、どうなるか知っているのは事実なわけです。
お酒が好きな人がたくさんお酒を飲んでいて、それがもとでアルコール依存症になってしまうことをお酒を飲む前から予見できるだろうか。そんな人まずいませんよね。それはなってしまったんです。お酒好きでたくさん飲みまくってるけど、アルコール依存症になっていない人は圧倒的に多いでしょう。しかし、薬物依存症の場合、その行為をすることで確実に依存症になってしまう、という予見はできますよね。確実に依存性を伴うわけですから。
ある問題を解決するために罰則を強化して防ごうとするのではなく、インセンティブを与えて解決すべきだという意見もありますよね。日本は、解決策としては罰則を強化してガチガチに固めちゃったら減るでしょう、という考えが先行しがちな国と言えます。
ですが、罰則を強化すべき問題もあるということは言うまでもないと思うのです。
飲酒運転とは何の良いことなんてないですよね。飲酒運転して人身事故でも起こせば、自分自身の人生も台無しになりますし、自分の家族も、相手も、多くの人にとって何のメリットもないのです。この行為を行ってしまえば、人生が終わってしまう、ということが周知しなければ減ることはないのです。まぁいっか、でやってしまえているうちはまだまだ罰則が甘いといってもしかたありません。
自分が幼い頃は今よりも飲酒運転には甘々でした。ですが現在ではかなり厳しくなっていますよね。大分減ってはいるでしょうが、以前として起きていることは事実なわけです。
薬物依存症を病気と捉え、他国のような救済の仕方をしていても、それが薬物依存者が減るということにつながるとは思えません。色んな事情があるにしろ、どうなるか予見がある程度できていた状態での使用をしたのだが、反自己責任論を適用しようすることは無理があるだろう。使用しても救済されるでは、まず使用者が減ることはない。使用すれば、死刑だという国もある中で特別厳しいとは思えない。