LIFE IS STRANGE

人生も為替も山あり谷あり

学校は教育の補助的機関に過ぎない

 

いじめが問題になると決まって学校側の責任が問われます。当然、担当教師にはかなりの批判が集まるわけです。

 

社会や保護者はすべての責任を学校側か加害者にしかフォーカスしません。

 

確かに、学校や担当教師にもそれなりに責任はあるでしょう。知ってはいても放置をしていたりしますし、そもそも気付いていないケースもあります。

 

ですが、すべての責任が学校にあるわけでは決してないと思うのです。

 

 

          

 

 

 

いじめる方といじめられる方、どちらに責任があるかというと、多くの人はいじめる方が悪いのだと言います。

 

 

当然、いじめはいけないものです。それに議論の余地はないと思いますが、いじめられた方に責任がないのかと言われたらそんなこともありません。いじめが起こる原因を作っているのはいじめられる方でもあるのですから。

 

 

いじめを受ける特徴のある人とはどういう人なのかというと、色々あるとは思います。他と内面的に、外見的に、能力的に劣っているところがある人。ざっくり言えば周りの人の当たり前が当たり前でない人でしょう。外れものですね。

 

 

それって本人の意思では変えられないもので、それを原因だというのはあまりにも酷だという人もいるでしょう。

 

 

まぁ確かに本人では変えられようのないことがほとんどでしょうね。

 

 

本人には変えようがありません。じゃあどうすればいいのかというと、そもそもいじめられないような子にすれば良いのです。

 

 

それをするのは親以外にありません。

 

 

いじめが問題となった時に非難されるのは学校と教師と加害者だけでなぜか親は被害者扱いされ、何も非難はされません。自分の育ててきた子供がいじめに遭ったらそれはそれは悲しいです。しかし、いじめられるような子供に育てたのも自分です。

 

 

いじめの標的にされないような子供に育てること、それが親の役目です。もちろん、いじめをしない子供に育てることもです。ただ、健康的で元気に育ったらいいと親は望むでしょうが、それだけで良いと望むのは親だけであることを気付いていない親は実は多いのです。

 

 

親は子供に、いじめられないような容姿と学力、身体能力を与えなければなりません。しかし、当然容姿が周りより劣っている子は生まれてきますが、ではそれを補うように他の面を高めてあげなければなりません。容姿が劣っていようとも人から好かれている人はいくらでもいるのですから。

 

そして、我が子が加害者にならないような最低限の教養と道徳を身につけさせなければなりません。

 

いじめはなくなりません。なぜなら、人に、あれはなんだか変だ、と蔑む感情がある限り。だから世界から差別がなくなることもありません。

 

しかし、いじめや差別はいけないんだな、と思える人を育てることは難しいことではありません。

 

 

          

 

 

 

学校というところは、教育においてのすべてのことを子供に教えなければならない機関ですか?

 

 

それは全くの間違いですよね。

 

 

学校が未然にいじめを防ぐのは不可能です。まして担当の教師には何もできません。そもそもそれは学校の役目ではないでしょう。

 

 

日本社会において、学校教育は偉大です。親たちは教育の多くを学校に期待していますし、教育といえば学校教育だと思っています。

 

 

学校て、単に最低限の教育を受ける場に過ぎないのではないですかね。

 

 

子供の教育者は、教師だと思い込んでいる人は多いと思いますが、それは間違いです。真の教育者とは親である自分です。学校に期待してはいけない。問題を解決してくれるのは学校ではありません。

 

 

子供に関心が持てず、子供をいじめの加害者・被害者にさせてしまうならそもそも親などならなければいい。

 

 

 

100円のコーヒーには100円の価値しかない

 

私は学生時代にいくつかアルバイトを経験しました。

カラオケ、居酒屋、派遣の仕事、カフェ、等々

 

その中で長く続けたのはカフェでした。個人的におしゃれな雰囲気が好きだったのと、コーヒーやスイーツが好きだったからですね。個人的な意見ですが居酒屋は勢いとかノリの接客だったりしたので、それが合わなかったっていうのがあります。

 

カフェは大手チェーン店でも働いたことがありますし、個人経営店で働いたこともあります。プライベートでもカフェにはよく行っていたのでそこそこ詳しいという自信はあります。個人経営のカフェのオーナーはバリスタの大会でも決勝に進んでいたりと、わりとその道では有名な方でコーヒーに関してはとにかく色々教えてもらいました。まぁ厳しいのなんのって...

 

店と取引をしている企業が主宰する展示会に同行したことがあったんですが、そこにチェーン店等で導入されているコーヒーマシンが展示されておりました。オーナーも感心していたんですが、今のマシンは人の手でいれるコーヒーよりも下手をすればうまいというレベルのコーヒーをいれられるコーヒーマシンが開発されちゃってるんだとか。

 

日頃からうまいコーヒーを飲まさせてもらっている自分としてもうまいというのがわかるものでした。それはもちろん値段にしては、ということです。ボタン一つ、一杯100円ほど値段でこれレベルかと驚いたものでした。

 

今やボタン一つで安くて美味しいコーヒーが飲めてしまうんですね。どんどんと競争も激しくなり、たった一杯といえど消費者の要求レベルはどんどん上がっていっております。

 

 

        

 

 

コーヒーマシンのレベルが高くなったというネタは、消費者の要求レベルが高くなり、それに応えていかなければならない企業がいて、そしてその下には企業の要求に応えなければならないアルバイトがいるという話をしたかったのです。

 

 

大手チェーン店のカフェもいくつか経験しているので、お客様の要求レベルが高くなるということは怖いことなのです。

 

今や、安くて、速くて、おいしくて、清潔、接客も丁寧、というのは当たり前であって、そのクオリティはどんどん高くなりつつあると思うのです。ネット私刑の時代、何か間違いがあればすぐにSNS等で拡散され、問題となり企業は対応を迫られます。

 

 

そして恐ろしい通達がアルバイト先の事務所に届きます、また無駄とも思える業務が一つ増えてしまう...

 

チェーン店というと常にお客が来ます。ですが本当にギリギリの人数しかシフトに入れてもらえません。というよりそもそも人がいない。お客が常にくる中で、終わらせなければならない業務は大量にあります。そこに仕事が一つでも増えると余計に大変になります。業務は増えるがシフトの人数も増えなければ、時給など絶対に上がりません。

 

 

一杯たったの100円や200円のやっすいコーヒーを提供するにも、提供するまでにはものすごい労力が払われているのです。

 

 

客としては、ボタンをして提供して会計したら終わりでしょ?と思っていますが、そんな簡単な作業ではないのです。速くて待たされない、丁寧な接客で間違いがなく、清潔で、おいしい、、、そしてそして、安く!

 

 

ふう、どこまで求めるのだ日本人よ、と言いたくたります。

 

 

値段には値段なりの価値しかないはずです。値段なりの接客と値段なりのクオリティ、清潔感だとか、速さだとか....しかし、いつしかそれ以上に求めるようになってしまった。

 

 

いつ頃から日本人には「まぁいっか」の精神がなくなってしまったのでしょうか。ブラック企業を作っているのは企業自身だけではなく、私たち消費者であることもお忘れなく。

 

 

 

「高速バス事故はなくならない」の構造

 

高速バス業界の抱える問題点てなんでしょう。

 

  • 過酷な労働環境
  • 世間に過酷な仕事というイメージがない
  • 人手不足
  • 運転手の高齢化

 

パッと思いついたのはこのくらい。

 

 

世間が思ってるバス運転手の仕事のイメージとはどんな感じだろう。

 

多くの人は、単純労働だと思ってるはず。基本的に決められたルートを定められた時間内に運転する。大型自動車の免許があってそれなりに運転に慣れれば簡単な仕事なんじゃない?と思ってる人多いでしょう。

 

 

以前は地方に住んでいたので、高速バスをよく利用して長距離を移動したもんです。5,6時間もの長い時間高速道路を運転し、夜行バスとかになればもっと長くなります。

 

 

高速道路を運転したことのある人なら分かるでしょうけど、あそこを長時間走るのはかなり疲れますよね。常に気を張ってないといけません。

 

 

これが例え、高速の運転に慣れたとしても、連日のことだったり、睡眠不足であったり、疲労が溜まってるなどの問題を抱えている状態であったりするとかなり過酷な業務となりますよね。まして、大勢の客を抱えています。高速バス運転の何が大変なのかを以下にまとめると。

 

  • 高速道路の長時間の長距離運転
  • 連日の勤務
  • 道路状況がどうであれ時間内に目的地に着かなければならない
  • 大勢の客を乗せての走行

 

         

 

 

残念ながら、この業界での運転手の労働環境をしっかりと整えてる企業は実際多くないでしょう。

 

 

なぜなら、世間が単純労働だと思い込んでいる。

日本は勤勉な人々のいる国というよりは、根性論によって強制的に働かせる慣習のある国ですから、誰にでもできるんじゃないの?という仕事に対してはとにかく劣悪な労働環境を提供します。

 

 

私が高速バスに乗った時、渋滞が起きていたんですが、数分でも遅れたら苦情が出てしまうこともあるので、運転手はスピードが出せるところではかなりスピードを出していました。こんなにスピード出して大丈夫か、とも思うほど。でも実際これは珍しいことではありませんでした。きちきちと時間が決められているので、時間内に到着しなければならず、遅れた場合あとのスケジュールにも影響してしまう。

 

 

していることに高度性はないのかもしれませんが、過酷な仕事であることはいうまでもないでしょう。

 

 

でも、実際は過酷だという認知がないので待遇は良くなりません。

 

 

そして、一度事故が起きてしまえば、世間のイメージは悪くなります。業務改善に躍起にはなるけど逆に運転手には余計な業務が増えて過酷さが増す可能性もあります。

 

 

運転手の労働環境が整えられないうちに業務改善に走っても事故なんてなくなりません。

 

 

こうやって過酷だけどそういうイメージがないので待遇はよくないわけです。なので、若い人の人手不足が生じ、運転手の高齢化が進む。こんな過酷な労働を50も60も過ぎた人が連日長距離を走るのはどう考えても無理があります。

 

 

人が集まらないならば普通は給料面だけでもあげて人を集めようとするものですが、この国は基本的にそういうことをしません。会社にとっては一番人件費が高くつくので、利益を追求する上ではとにかくそこを安く抑えたい。一人の社員を根性論の名のもとに使い通す。自ずと高齢化も進み、一人あたりの負担も増えていきます。

 

 

 労働者を軽視し、消費者を重視し、法令ギリギリのところで利益を追求していた。当然の結果が招いた事故であって会社側に免責の余地はありません。

 

 

しかし、事故で初めて注目が集まるにすぎず、このような会社はいくらでもあるでしょう。今回の事故も氷山の一角であって今後も事故がなくなることはありません。

 

 

 

 

Yahoo知恵袋を見ていて思うこと

 

自分はたまにYahooの知恵袋を見ます。

 

投稿はしないものの何か問題を解決したい時に、同じような問題を抱えている人を探したりしてヒントや解決の参考にさせていただいています。気軽に疑問を投げかけ、それに詳しい人たちが応えてくれるのはありがたいですよね。しかも無料ですし。

 

 

ですが、そんな答えをそもそも投稿者は求めてないだろう、と思ってしまう回答者が多くあるんですよね。

 

 

例えば、何々に関して知識がないのでオススメの本を教えてほしいだとか、これは答えが決まっていますよね。そうオススメの本を求めている、だから本を紹介すればいい。その分野で詳しい人が自分が読んできた中でオススメの本を答えればいいわけです。

 

 

投稿者の方はそれ関連で無知ゆえに詳しい人にオススメされたいのです。ですが、回答者はオススメの本を具体的にあげずになぜか自分の知識や持論を押し付けて終わっていたり、知らないことを説教するというのをよく目にするんです。

 

 

別にそれいらないじゃん、といつも思ってしまう。

 

 

自分はその分野で詳しくて色々読んできてよかったのはこれですよとか、逆にあまり参考にならなかった本はこれだったとか、まぁそれが答えだと思うのです。

 

 

一つの投稿に対して回答者は一人ではなく何人でも応えて良いのだから、オススメの本が詳しい人から何冊も教えてもらえるとそれだけ投稿者にとっては選択肢が増えてありがたいことこのうえないわけですよね。

 

 

オススメの本を聞いてるのに、知識だとか持論を押し付けられても投稿者は迷惑なのですよ。

 

 

挙げ句の果てに、一冊も教えてもらうことができなかったと、

 

 

こういう人は面接で話したいことがたくさんあってまとめられなくて、結局面接官の質問を忘れ、トンチンカンな回答をしてしまう受験生にそっくりです。

 

 

何かに詳しい人にありがちなことですが、とにかく回りくどい言い方をするのです。知識があるゆえに難しく答えてしまう。詳しいおれが教えてやろうという気持ちは良いのですが、知識を押し付けられても投稿者からしたら単なるイタイ人です。

 

 

その相手が高校生に対してだったりするので余計イタく見えてしまう。

 

 

 

使い方を教えない親たち

 

漫画、ゲーム、スマホ等は、親が子供に読ませたくない、使わせたくないものの代表格でしょう。

 

お前は漫画ばかり読んでないで、本でも読みなさいとか、ゲームばかりしてないで勉強しなさいとか、こういうこと言われたことがある人は多いはず。

 

中にはこれらは子供にとって害悪だ!なんて極端は親たちもいますよね。

こういう親たちはとにかく全否定しかしません。

一番の解決策は「与えない」「使わせない」ことだと多くの親が思っていることだと思うのだけれど、与え方や使い方を教える親はまずいません。

 

ほとんどの子供たちがはまってしまうこれらは本当に子供たちにとって害悪なのか、と言われたら全くそんなことはないですよね。

 

子供の頃に漫画やゲーム等から人生に影響を与えられたという今の大人たちもいるでしょう。例えば、世界的に有名なサッカー選手が子供の頃に読んだキャプテン翼にとても影響を受けてサッカーを始めたという話があります。ゲームが大好きだったから自分でゲームを作りたいと思い、大人になってものすごいヒット作を作ったり、ゲーム付きがYouTuberとなり月何百万ものお金を稼いでいたりします。スマホだって扱えるということはIT後進国である日本にとっては、幼い頃からIT機器に触れている子供たちが増えるということは、大人になるころには今よりはまだマシになるでしょう。

 

親が思っているような悪影響ももちろんあるでしょうが、良い影響も与えることができるのは事実です。

 

モノが溢れる時代にモノを与えない、奪う教育をしても、子供たちは反発するだけ。今の親世代は今ほどはモノがなかった世代です。だから、モノが溢れる時代の教育法がわからない親も多いでしょう。

 

だから、今は今の教育方法が必要です。

 

まずは子供の興味のあることに対して、興味を持ってあげることが大切。子供はいくつになっても親に自分のやってることに興味を持ってほしいものです。認めてあげて興味を示すこと、否定ばかりされて親の言うことに従いたいと思う子供がいるのだろうか。

 

そして、与え方と使い方を教えてあげる。一緒にゲームをやるし、ゲームの話もする時間をとるけれど、その分、勉強をするようにしてほしいだとか、興味関心を持ち、認めることをして、親の要求を伝える。

 

まぁ、勉強やれ、読書しろ、という親が勉強も読書もしない姿を見せている、というのも大きな問題だと思うのです。

 

 

 

殴る文化のある日本

 

教師の生徒に対する体罰に関するニュースを見ると

ああまたか、と思ってしまいます。日本では教師の地位が高いので、教育の一環として殴るという行為が正当化されてきました。近年、メディアの発達もあって体罰問題が大きく騒がれるようになり、いわゆる暴力教師は少なからず減りつつはあるのかもしれませんが、依然として水面下では行われていることでしょう。

 

自分たちが普段何気なく見ているテレビでもよく人を殴っている光景は目にしますよね。そう、それはお笑い番組です。ツッコミの人がボケの人をへらへらしながら殴りまくっていますよね。日本人にとっては大したことではないです。極々ありふれたこと。

 

ですが、外国人からすれば、ありえない、ことなんですね。そんなに日常的に人をなぐったりしません。スウェーデンでは親が子供を叩くだけでもアウトです。虐待でつかまっちゃいます。

 

日常的に人の頭を叩くことが当たり前だと周りも気にもしません。あの子は悪いことをしたから殴られてるんだろうなと、周りですら殴ることを認めています。

 

生来日本人は殴ることを教育の一環とされてきた日本において、体罰問題とは切っても切り離せないでしょう。殴ることが文化として日本に根付いてきたことで、時代の流れによって、そんな教育法はダメだと騒がれ始めてきたことはこの変な日本の文化を見直そうとなってきているのかな...まぁお笑いから相方を叩きまくる文化は消えることがないでしょう。

 

 

 

無駄を大切にする国

 

中学、高校と運動部に所属しておりましたが、運動部特有の

 

俺たちの時代からこうだったんだ

だからお前たちもこれをしろ

 

という感じのことをひたすら言われてきましたよ。まぁとにかく上下関係には厳しく、常に気を遣わないといけない。それは部活だけではなくて、校内であったり私生活であったりと。このよくわからない日本的慣習?には悩まされたものです。

 

こういうのはどこにもあることですね。仕事においてもそうです。新人はとにかく無駄なことでも伝統だからとかいう理由でやらされるもんです。

 

こういうのって本当に無駄だと思うのです。

 

こういう無駄なことをしている側も、これって必要あるのか?と疑問に思っていただろうに、自分がする側になると平気でその無駄なことをするのです。

 

日本人にとっての上に立つ人とはこんな感じなのです。

 

自分は先輩や上司からこういうことをやれと言われてしてきたんだ、だからお前らもこれをやらなれけばならないと。例え無駄だと思えていてもしなければならないのだと。

 

部活動においての後片付けにおいて、後輩がせっせと片付けをしている中で先輩たちは楽をして休んでるとか、それよりもみんなでやればいいのでは?と思っていました。みんなでやれば早く終わるわけだし、率先して先輩がやっているのを見ると後輩たちもやる気や士気が高まるのではないかと。

 

しんどいことは後輩に、と任せず、先輩になろうとも一緒にやる、率先して仕事をしている年長者とはカッコよく映るものです。

 

日本の場合、リーダーとは率先して組織を導いていくものだ、というのではなく、リーダーとは率先して楽をするものだ、なのです。

 

上下関係を大切にすることは気遣いであったり、礼儀を身につけるには良いのかもしれませんが、別にそれは上下関係を大切にすることから培おうとしなくても良いのではないかと思うのです。

 

礼儀が重んじられるような剣道やら柔道ならともかく、チームスポーツにおいてはむしろ上下関係とは弊害をもたらしているのではないかと感じる。

 

それって無駄だからもうこの代でやめにしよう、そうすれば効率的になると合理的な判断を下せず、伝統であり守り続けてきたことだから何か意味があるし大切にしていかないといけないという精神論で物事を決める国民性とは、周りの国々が変わっていく中で足枷のようなものとなりつつあるんです。

 

ちょんまげだって、なぜあんな非効率的な髪型が生まれたかわかりませんが、明治になり散切り頭が普及する様になると恐る恐るも皆がその様な髪型に変えていき、変えてみるとその方が楽だと、今ではそれが当たり前であり、その伝統を惜しむ人もいない。散切り頭になったことで、自分を表現するレパートリーが増えてよかったよかったという感じですよね。

 

伝統を変えていくというのは難しいことであるけど、変えてしまえばこれでよかったと思うもの。もう少し変化を受け入れられる国民であったらなぁと思った今日この頃。